2013年02月28日(木) |
1月7日、容態悪化 [2012年12月末、最後の2週間] |
今日病院に行ってみると母の様子がおかしい。今まで黄疸を確認できたのは目の白い部分だけだったが、今日は顔全体に黄色みを帯びたのがよくわかった。
さらに意識がおかしく、会話をまったく出来ない。動いているときも、どちらかというと男性なら暴れているという表現があっていると思う。ベッドの上で何をしたいのか、手すりにつかまっていては踏ん張って、休ませてあげようと横にしようとしたが抵抗された。目も自分で制御できずぐるぐる回っていて完全にイっている様子だった。
ベッドは今日、窓際のところから入り口に近い、両サイドが開いていて両側から看護できる場所に移動された。また今まで入院してきて初めて心電図も取り付けられた。口から薬を飲めなくなったため、痛み止めも点滴によって投与されるようになった。
帰り際、担当医が話しかけてきて、「状態が悪くなったようです。どちらかというと、今までは(血液検査の)数字よりはるかによく見えましたが、今日は状態が数字通りになった感じです」と言われた。また年末に話をしたときあと2ヶ月ぐらいもつかなぁ、と言われたのに、今日はこの状態だともって数週間と伝えられた。ただ今日の状態は痛み止めの薬(オキシコンチン)を経口から点滴に変えたため、投与量を調整している最中であり、そのために意識混濁が起きている可能性もある、と言われた。
意思の疎通も出来ず、母がもがいているのを何もしてあげられずに見ているのもつらいので、今日は早々に引き上げた。
2013年02月27日(水) |
2月24日、七七日、納骨 [2013年1月以降、母を亡くしてから] |
実は2月24日の週末、母の納骨(49日)のために2日だけ日本に帰国した。こんな短い日本滞在は初めて。でも出席出来てよかったと思う。慌しくしてアメリカに戻り、仕事に復帰した。
お骨があり、その周りにお花が添えてあったときはまだ母が家にいることを意識できたが、それもお墓に収められ何もなくなると、またひとつ母がいなくなったことを認識する材料となる。納骨を終えてほっとはしたが、あまり気分のいいものではない。
アメリカにいると普段なかなか母と話せなかったので、いまだに日本に電話すると母が出てくれるのではと思ってしまう。お化けでも何でも、出てくれるとむしろ嬉しいのだが。
2013年02月24日(日) |
1月6日 [2012年12月末、最後の2週間] |
昨日四国から出てきてくれた友人とそのお母さんと一緒に病院を訪れた。案の定、母は寝ていたが、軽く肩をさすると起きて来た。来客があったことを告げると最初は寝ぼけていたのか、それとも病気によるものなのか混乱していた様子だったが、少しずつ話すうちに誰がお見舞いに来てくれたか認識したようだった。するとどうにか力を振り絞って自力で起きあがった上に正座をし「遠いところから有難うございました」とお礼を言って、頭を下げていた。
それでも数日前よりはかなり消耗していたようだったので、少し話したところ(ほんの10分程度)でまた休んでもらうべく退室した。だんだんと話せる時間が少なくなっていることを実感した。自力でトイレも行けなくなったらしい。実際、母がひじを使って自分で起き上がったのもこの日が最後だったと思う。
相変わらず栄養は点滴のみ。少しは飲めるかなと思って買っておいたお水やほうじ茶はまったく減っていなかった。
P.S. この後友人たちと皇居や東京駅付近を散歩した。実は生前母が元気なときに、彼らが上京した際同様に観光をかねて歩いたという。
2013年02月23日(土) |
1月5日 [2012年12月末、最後の2週間] |
母が家にいなくなり、この日からまた面会時間に病院に行って、母と会う生活に戻った。この日は体調がすぐれず、あまり話を出来ずに帰った記憶がある。悪いけど休みたいと言われたような。実際記録を見ると、夕方早くに帰宅している。お正月家にいたのが疲れたのかも。事実トイレに行きは自分で行けたが、帰りは疲れて戻れず看護婦さんに車椅子でつれてきてもらったそうだ。こんなことは初めてのこと。
ただ会話は成立していて、口からまだ薬を飲んでいた。ご飯は出されても食べられず、栄養は点滴のみ。
夜、四国からわざわざ母のお見舞いに来てくれた友人とそのお母さんと会った。予備校時代の友人で会うのは12年ぶりぐらい?お互い歳をとったことを実感するも、昔話に花を咲かせた。
2013年02月19日(火) |
1月4日、病院に戻った日 [2012年12月末、最後の2週間] |
今日は母が病院に戻る日。心配していた吐血、下血が起きず、またこらえられない痛みに苦しむことなくおうちでお正月を過ごせたことは良かったけど、やっぱり病院に戻ってしまうのは寂しい。でも点滴もしてないせいか確実に体力が奪われているし、看護婦やお医者さんが近くにいた方が安心出来るようなことも言ってたので、このぐらいで一度病院に帰り、また外泊で家に戻って来れればいいなと思っていた。
だが、お医者さんが今回外泊許可出すときに心配したように、今回が母にとって家で過ごす最後の機会となってしまった。
目の黄疸はかなりはっきりしてきていた。歩くのもかなりふらつくようになり、起きているのもつらそうで、病院に戻る直前まで横になっていた。それでも意識はしっかりしていたし、少しだがほうじ茶は飲んでいた。
ただ本人は覚悟していたのかも知れない。父が車で母を送ろうと車の用意をしていたとき、母と二人きりになった。するとかすれた声で、でもしっかりと母から急にお別れの挨拶と励ましを伝えられてしまった。「まだ元気になれるかも知れないんだから、そんなこと言うの早いよ」と言ってお互い微笑んだけど、自分は正直悲しくて仕方なかった。
今まで小さい頃からわがまま言ったり、迷惑、苦労をかけてきたことに対しての謝罪、そしてあらゆることに対する感謝の気持ちを伝えたかったが、言えなかった。まだ早すぎると思ったから。結果論になるけど、彼女の意識がはっきりしているときに、これらは伝えられなかった。それが良かったのか、悪かったのか、今でもわからず、葛藤している。
因みに3時前に病院に戻るときも自力で歩いていた。看護婦さんにも「ただいま」と言って笑顔を見せていた。でも家にいて疲れたのか、すぐに寝てしまった。仕方なく父、弟、私の見送り組も家路についた。
たいしたことは出来なかったが、母が普通に家で家族とお正月を楽しく過ごせたことを願った。
2013年02月18日(月) |
1月2日 [2012年12月末、最後の2週間] |
今日はしきりに病院に戻らなきゃと心配していた。約束は4日の午後なのだが、聞き間違えたか、勘違いをしたか、それとも日付がわからないのか、何度も「帰らなきゃ」と言っていた。もしかしたら遅れたら先生に怒られちゃう、というただの小心な気持ちからだけだったからかも知れないが。
黄疸の出具合は一緒、白目に確認できたが顔や皮膚では確認できなかった。ただコタツに入っているとき手をバタバタしているしぐさがあったので、あれが「羽ばたき振戦」という症状だったのかも知れない。ただ無礼なこともなければ、周囲への無関心も、だらしなさもなかった。それより「こんなになっちゃって仕方ないねぇ」とか何かしてもらうと「すみません、有難う」と全く普通だった。勿論まだ自分でトイレにも行けた。
それと胃腸にガスがたまっているのか、お腹の違和感を訴えていた。そのせいなのか、それともまた腹水が上がってきたのか、お腹が張っているように見えた。お腹が張って苦しい時用に先生からもらった浣腸の薬(排便を促すもの、と聞いている)を試そうとしたがそれは嫌がり、どうせやらないといけないのなら病院で看護婦さんにやってもらいたいと言っていた。ただ父も以前、祖母の時それをやったら祖母の体力がガクッときた、というから、彼もそれをやることを躊躇していた。
どちらにせよ明日病院戻るし、この時期看護側が無理をさせる理由はないので、母の意見を尊重することにした。腸閉塞を起こしていないことだけを祈っていたと思う。
2013年02月17日(日) |
1月2日 [2012年12月末、最後の2週間] |
朝起きてすぐに気になったこと。目を見たら白目の部分が黄色がかっていた。昨日は確認できなかったから、恐らく今日から黄疸がまた出始めたんだと思う。口から食べられず、自宅に外泊中のため31日から点滴もうっていないためか、元気もなくなってきた感じがした。疲れたと言って眠っている時間がさらに長くなった。便が出なくてつらそうだったが、ガスが少し出て楽になった、とも言った。
いいことはまだ壁をつたって歩けたこと。薬のお陰で痛みはなかったこと。意識はしっかりしていて、起きているときは会話が出来たことだろうか。ただ薬のためなのか、肝性脳症のためなのか、夢のようなこともたまに言っていた。(亡くなってもういない)親戚と一緒にお風呂に行くから、と言って髪の毛をとかし始めたり、有名な芸能人(母がファンだとは思わないが)と結婚式を挙げた、と言ってにこにこしたりしていた。
でもこれが薬の副作用による多幸感ならそれはそれでいいんじゃないか?と父や弟と話して、一緒に笑ったことをよく覚えている。痛みで顔をゆがめているのを見守るよりはるかにいい。
2013年02月16日(土) |
2013年1月1日、お正月 [2012年12月末、最後の2週間] |
朝、母が起きてきて明けましておめでとうを言うことが出来た。母以外、うちは男ばかりなので、自分が生涯初めてお雑煮を作った。母は汁しか飲めなかったが、おいしいと言ってくれた。あと大好きな栗きんとんを一口だけ舐めて、おいしい、と言っていたことを思い出す。
それと今まで白湯を出していたが、自分が買ってきたほうじ茶を温めて出すと、「お茶はおいしいね」というので、それ以降お茶を温めて少しでも水分を取るように促した。一方で、少しでも栄養をとポカリスェットやブドウ糖が入った顆粒のものをお湯に混ぜて出したが、匂いが鼻についたのか薄めても嫌がって飲んでもらえなかった。
この日症状は退院直後と変わったように思えなかった。いつも通り定期的に飲むオキシコンチン(痛み止め)で痛みをコントロールが出来、追加では何も飲まなかった。気持ちが悪くなって戻すことはあったが、自分でトイレに行って処理が出来ていた。背中をさすってあげようかと付き添っていこうとしたが、その姿を見られたくなかったのか、来なくて大丈夫、一人でいい、と言われてしまった。
それと台所で食事を作る息子の姿を見ていられなかったのか、台所に立って家事をしようとしたこともあったが、さすがに休んでいていいよ、と伝えてゆっくりしてもらった。後で考えれば無理ない程度に一緒にやれば最後の思い出になったかなとは思うけど、そうすると彼女は必ずやせ我慢をするので、結局はさせてなくてよかったと思うことに現在はしている。
とにかく一緒にこたつに入り、テレビを見ながら少しでも笑えたのは本当に楽しい一時であった。
2013年02月15日(金) |
12月31日、大みそか [2012年12月末、最後の2週間] |
家に戻ってからの母はこたつに入り、一緒にTVを見ていた。可哀そうなのは食事のとき。一緒に食卓にはいるが、食べやすいようにおかゆを作っても、スプーン一口程度しか食べられない。おなかはすくそうだが、いざ食べようとすると受け付けないのか、食べたくなくなってしまうという。「ぼくたちだけ食べてごめんね」と言ったが、笑って「大丈夫、食べて」と同席してくれていた。
今日は問題なく自分でトイレに歩いて行ったし、地力でお風呂にも入った。湯船につかれてすっきりした感じ。顔も久しぶりにつやつや感が出た。寝るのも2階だが、壁をつたって自分で登って行った。痛みを訴えることもなかった。
どうにか無事に年を越せてよかったな、と思ったことを記憶している。
2013年02月09日(土) |
12月30日、その2、余命宣告 [2012年12月末、最後の2週間] |
今までがんの告知を始め、今までは母も同席で病状の説明を受けてきたが、実はこのとき初めて私と父だけで最初に説明を受けた。担当医が緩和ケア専門の方に変わったからかも知れないが、それより病状が芳しくないからという方が正しいと思う。このときはっきり長くても「これだけ」という余命を聞いた。また後で母も同席して病状の説明があったが、説明はオブラートに包まれていい意味で嘘が含まれていた。それでもなお、母は治すことへの意思を含んだ質問をし、逆にそれが非常に泣けた。
それでも痛みがうまくコントロールできていたのでお正月の期間、外泊の許可が出て家に戻ることが許された。実は私が帰る2日ほどから勝手に外泊許可が出るものだと思っていたらしい。先生が診察する時間になると、元気さを見せるためか起き上がってベッドにいつも座っていたという。看護師さんには「正月家に帰るの」、と既成事実を作っていて外堀を埋めていたことも判明。それを聞いた担当医は「誰が外泊していいって言ったの?」と同僚に確認したそうだが、あまりにも帰りたそうにしている母を見て「可哀そうになっちゃった。できればもっと長く帰してあげたいけどね」ということで外泊許可を出してくれた。
本当のことを言えば、もう病院でできることもほとんどなく、本人が望むならずっと家でもよかったんだと思う。このときは戻してしまうこともあったがまだ経口で薬を飲み、助けがあれば自分で歩けたから。
ちなみに家族としては渡された薬の管理と、それを定期的に飲ませることに多くの注意を払った。量が多かったし、眠っていることが多い母に時間を意識させることに無理があったから。
それともう一つ、後で担当医に言われたことだが外泊中もし吐血、下血などした場合、救急車を呼んでも救命士にはCPRなどはしないように伝えて欲しいとのこと。大量の出血では助けられないし、心臓を圧迫してもただ肋骨を折って苦しみを増すだけだから、という判断でした。いずれにしよ、もし何か起きたら延命できる余地はない状態でした。
2013年02月08日(金) |
12月30日、その1、余命宣告 [2012年12月末、最後の2週間] |
昔のことをメモをみながら思い出して書くより、まだ鮮明に覚えていることから書き残していこうと考え、先に最後の2週間のこと書きます。この2週間は私自身が日本に帰国し、母の生涯の最後の日まで近くにいることが出来たので、すべてが自分が体験したものです。
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雪のため飛行機が飛ばず一日遅れの帰国。翌日30日に日曜日にも関わらず、主治医は面接をしてくれた。25日にCTや血液検査をしたようだが、会うなり一言「(母の)見た目以上にかなり厳しい状況です」とのこと。抗がん剤も効かず中止していたのだから、良くなるはずはない。
彼が言うには
- 癌が拡大し、肝臓に食い込み、そのため肝臓がかなり委縮している。
- 癌が門脈などを食いつくし、かろうじて細い血管が肝臓に血を送っていて肝臓を機能させている。
- 造影剤を入れて胃や腸を見たが、閉塞は見られないものの、逆に(造影剤は)かなりの刺激でこれらの器官の活動を促すはずなのにそれらが動いている様子がない。
- 癌が大きくなり、いつ突き破って吐血、下血してもおかしくない。
ということでした。予想したとはいえ、現実を突きつけられるとこちらとしてはかなりショック。それでも母を見ると、かなり痩せたとはいえまだベッドで自分で身体を起せるばかりか、一人でトイレにも歩いていける状態。久しぶりにあったときもベッドの上に座って待っていてくれ、会うなり「お帰りなさい」と声をかけてくれた。痛みを薬で抑えているとは言え、普通に会話もできる。
現実を知らされたとは言え、努めて母の前では明るく振る舞うことにしたことを覚えている。
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