2013年03月09日(土) |
1月12日、母の人生最期の日その1 [2012年12月末、最後の2週間] |
昼間でかける用事があったので、夕方4時前になって病院に行くと、すでに母は個室に移されていた。先に来た親戚が「家族の方はいらっしゃらないですか?」と先生が探していたことを教えてくれた。自分が着くと、ちょうど先生と父が話し始めるところだったので、自分も参加した。
結論から言うと、今日か明日が山です、とのこと。説明として、急にさらに状態が悪くなり、内出血や紫斑が見られるようになったこと。そして前日より尿が減り(~100ml)、恐らく腎不全が起き、実際血中のカリウム濃度が7Eq/Lを超えていた、とのことだった。
ちなみに7を超えるカリウム濃度が心停止を起こしかねない危険な状況であることは素人でも知ってる。生理学やればこれが心筋にとってどんなにまずいか分かるし、そうでなくてもドラマとかで塩化カリウムの静脈注射で殺人、というシーンはかなりの人が見たことあるはず。ちなみに以下注釈。
カリウム濃度の異常
初期の心電図変化はカリウムが5.5mEq/Lを上回ると生じ,QT間隔の短縮および高くて左右対称性の先鋭的なT波を特徴とする。カリウムが6.5mEq/Lを上回ると,結節性および心室性の不整脈,QRS幅の拡大,PR間隔の延長,P波の消失がみられる。最終的に,QRS波は変形して正弦波パターンとなり,心室細動または収縮不全が起こる。
実は恥ずかしい話、先生の話を途中まで聞いて頭が真っ白になってしまった。わざわざ自分のためかこれらの症状を何とか症候群とか説明してくれたけど頭に入らず、さらに全てをわかっていないのに「わかりました」と答えた自分がいたから。こんなこと今までなかった。
慌てて個室に入って母に会った。顔がまっ黄色で黄疸がひどかった。時折普通の呼吸に戻るときもあったが、ほとんどがいわゆる顎で呼吸していて、苦しそうだった。意識が戻って会話できるかどうかも、かなり怪しかった。
長くなったのでその2に続く。
2013年03月06日(水) |
1月11日、容態急変、悪化 [2012年12月末、最後の2週間] |
今日病院に行くと今まで以上に顔が黄色くなっていて、またほとんど話すことが出来なくなってしまった。熱も出ていたようで、氷枕がしてあった。それでも昨日同様、リップクリームと保湿クリームを塗ってあげると「気持ちいい」と言ってくれた。
顔の色を見る限り、癌が細々とつながっていた門脈を破壊したか、肝臓そのものを食い荒らして肝臓の機能がほぼ停止してしまったのかもしれない。
袋にたまっている尿を確認すると、心なしか昨日より少ない気がする。夕方回診で回ってきたスタッフに尿の量を確認すると「少なくなってきています」と言われた。ということは腎臓もついにやられてきたかと思う。担当医と話をするも「肝性脳症がひどくなってきている感じです」とのこと。触ってみると手足も冷たくなってきている感じがした。
また自分らが不在のとき尿管を直接通されていたのが嫌だったのか、無意識でパジャマや下着を脱ぎ、はずしてしまっていた。しかし自分で服を着る余力はない。それで待合室から帰ってくると下半身裸の母を見てびっくりし、慌てて看護婦さんに直してもらったこともあった。
帰り際、担当医とまた話しかけられり「そろそろ個室に移った方がいいかと思います。指定のお見舞い時間以外でも側にいてあげられますから」と部屋を移ることを勧められた。
いよいよ終わりが近いことを告げられたも同然で、帰り道父と話をしていても、どよーんとしていた。本来なら今日一度アメリカに戻るはずだったが、当然飛行機をキャンセルし、延長を滞在することにした。(因みにこの緊急時に対し、デルタ航空は寛大な判断と処置をしてくれたことを記しておく)
2013年03月04日(月) |
1月10日、小康状態続く [2012年12月末、最後の2週間] |
今日も母の調子は良かったようだ。週明けの悪い状態を伝えたため、母の姉たちが慌ててお見舞いに来てくれたが、状態が思ったほど悪くなく話が出来てよかったと帰っていった。父と夕方ごろお見舞いに行ったが、ちょっと長く話しをして疲れた様子だったが、意識はしっかりしていたし、会話も問題がなかった。昨日と同様、リップクリームや保湿クリームを塗ってあげ、多少ながらも脚のリンパマッサージをやってあげると喜んでくれた。
尿が出にくくなったのか、ついに管が通されたようだが尿量はしっかり確保できている様子。腎臓が動いている証拠だ。痛みもしっかりコントロールできているようで自分が年末に帰国して以来、痛みを訴えたことはない。
この状態を保ってくれれば、と祈ったことを覚えているがこんな希望を持つことは長く続かなかった。
2013年03月03日(日) |
1月9日、容態改善、小康状態 [2012年12月末、最後の2週間] |
昨日、おとといと完全に意識が戻らず、会話が出来ない母を見てきた。今日はいったいどうなっているんだろうと思いながら病院に行くと、あれっ、父と普通に話をしていて、びっくり。今日は調子がいいようだ。
意識もしっかりしているどころか、会話も問題ない。気のせいか血色もいい。自分で起き上がることは出来ないが、ベッドの頭の方をあげてもらい、かなりの時間話しをすることが出来た。
肌が乾燥しているようなので唇にリップクリームを塗ったり、顔に保湿クリームを塗ったりしたら、「気持ちいい、有難う」と言ってくれた。たわいない話も出来た。母が登りたい話をしたり、ヨセミテ公園に行ったときの話しをしたり。痛みを調整する薬(オキシコンチン)のコントロールがようやくうまくいき、点滴で体力が回復してくれればもう少しもつのではないか、と期待を抱かせるのに十分なぐらいしっかりしていた。事実、夕方久しぶりに口から薬を飲むことが出来ていた。
父も含めて久しぶりに母と会話を楽しめて、家路に着く足取りも軽かった一日だった。
2013年03月01日(金) |
1月8日、容態変わらず [2012年12月末、最後の2週間] |
父と病院に着てみたが、容態は相変わらず悪い。ほとんど眠っているし、声をかけたり肩をゆすったりしても起きてこない。眠っていてもなんだかうなされているようだ。
一応気分良く起きたときに話そう、ということでかなり長い時間待合室にいては様子を見に病室を訪れたが状況は変わらなかった。それとベッドのマットやシーツが非常にやわらかいものに変更されていた。看護婦さんと話すと「床ずれのしにくいものなんです」ということだった。動けないから仕方がないのか。
「これじゃもう厳しいかなぁ」と父が話しかけてきたことをよく覚えている。ただ帰り際、夜の診察のために看護婦さんが「○○さん」と呼びかけると「はい」と言って目を覚まし、検温などちゃんと対応していた。後で先生の検診のときも「有難うございました」と言っていた。
ちょっとだけほっとした瞬間だった。
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